1969年はどんな年だった?今はとっても大人なあなたのあの頃は?

1969 数字 アミのつぶやき
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今回は、R60(60才以上読者限定)です^^

大人のなつかし話なので・・

若い人は読んでもつまんないからね!

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1969年はどんな年だった?とっても大人なあなたの思い出は?・・と聞きたくなった理由

1本の映画と一冊の本が、同時に目の前に現れて、ともにキーワードが1969年だったのです。

そうしたら、急に同世代に問いかけたくなってしまったのです^^

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1969年、あなたは何歳でしたか?

何をしていましたか?

どんな思い出がありますか?

どんな曲がすきでしたか?

映画やテレビはどんなのみてた?

どんな本見てた?

どうして、急に1969年だけ、急に気になったかといいますと・・

予想気温34度の一昨日、映画館に避難したのです。

 

観た映画は「Once upon a time in Hollywood」

ブラピとディカプリオの最近の新作です。その設定が1969年。

さらに、映画の前日オペラのブックオフで見つけた

村上龍さん「69 sisty nine」

村上龍さんの高校時代の思い出を綴った青春記。

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だいぶ前に、フランス語訳の「1969」を手にしていたので、自己流解釈の間違いチェックのために買ったのでした。

 

ブラピとディカプリオの映画が1969年って、その時は頭になく・・。

でも

この映画を観たら、急にこの村上龍さんの日本語版が1969年が気になり、一気読みしました。

 

そうしたら・・

 

村上龍さんの佐世保の高校3年生の世界から、

私の頭の中は、1969年当時の私の中の思い出も、ぐるぐる回り始めたのです。

 

↓こちらは、フランス語版です、表紙のかわいさに惹かれて購入^^

1969 フランス語

1969年はどんな年だった?当時の社会的な出来事と流れは?ウィキペディアでは?

社会的な観点では、時系列曖昧だったので、

ウィキペディアで調べてみたら、

1969年、世界的には

 

アメリカでは、ケネディ大統領の暗殺後に就任したジョンソン大統領のあと、

1969年からニクソン大統領が就任、

フランスは、ド・ゴール大統領からポンピドゥー大統領に変わっていて、

日本では佐藤栄作首相の長期政権だったのですね。

 

 

7月には、アポロ11号が、人類初の月面有人着陸というニュースに興奮しましたよね!!

どこで、誰とあのニュースを見ていましたか?

あの頃、アメリカもソ連も競うようにロケットを打ち上げていて、宇宙がどんどん身近になるのだと思っていました。

 

1969年、大学紛争、若者の抗議運動は国内だけではなかった

国内の事件は、

1月には東大安田講堂事件がありましたね。

 

当時大学生だった方は、大きな影響を受けられたでしょうね、たぶん東京の高校生も。

地方都市に住む中学生の目には、日本で一番優秀な大学の人たちが、どうして自分たちの学校を壊しているのだろうと、信じられない思いで一連の学生運動のニュースをみるばかりでした。

道路まで壊して投石したりしている映像には、最近のパリの黄色いベストへの感想と同じで、破壊活動には訴えてほしくないと今も昔も思います。

 

高校3年生だったという村上龍さんの「69 sisty nine」には、大学闘争の話も背景のひとつになっています。

まだまだのんびりした距離感でしたが・・。

 

1969年は、世界的な流れでも、

チェコでは、プラハの春を圧殺に抗議して、大学生が焼身自殺、フランス、パリでも政治活動で焼身自殺をしたとされるフランシーヌ・ルコントさんをうたった「フランシーヌの場合」が生まれました。

当時のフランスの若者たちの運動も激しかったと聞きました。

 

 

ベトナム戦争の解決の緒が見えず、沖縄も返還の目処がたったところだったのですね。

ビートルズの様子もどんどん変わっていったし・・

至るところで、反戦歌のフォークソングが流れ、アメリカではヒッピーが増えはじめていました。

ヒッピー文化はアメリカだけでなく、フランスの60代後半、70代前半世代もかなり影響を受けたようで、共同コミュニティで育ったという40代の方もいます。

 

家にホームステイしていた、まじめで優等生っぽいアメリカ人の女の子も帰国してから70年代には、ヒッピー風なライフスタイルになって、彼女の両親を嘆かせていました。

 

ブラピとディカプリオの「Once upon a time in Hollywood」でも、ヒッピーというかカルト集団が描かれています。

アメリカでは、ロマン・ポランスキー監督の妻でシャロン・テートという美しい女優さんが、お腹の赤ちゃんとともに惨殺されるという、カルト教団による事件が起こっています。

 

この事件とブラピとディカプリオの「Once upon a time in Hollywood」についてもっと書いてしまうと、ネタバレになってしまうので、ここまで・・にしますが、あの頃のアメリカの雰囲気をたっぷり味わえる映画でしたよ!

 

ディカプリオ演じる、昔日のウェスタン映画の俳優の白黒画像は、祖父母の家に行くと いとこが観たがっていた「西部劇」を思い出しました。

白黒のテレビの中でも、埃っぽい西部で、いつもガンマンがピストルを撃っていて、なんて暴力的なんだって思ってました。

私は「チロリン村とくるみの木」を観たくて、どちらも譲らず、

いつもふたりで喧嘩しておこられていたものでした。

1969年は「8時だよ、全員集合」も「サザエさん」も始まった年だった!

今聞くと、「まぁ、そうなんだ~!」って思うのですが、

私は、中3だったので、リアルタイムでドリフもサザエさんもほとんど観ていませんでした。

 

実に多くののエンタメ系が花開く時だったようで、テレビもアニメも黄金期に向けてのダッシュが始まった頃だったのですね。

 

4歳下の妹に全チャンネルの選択権を母が与えていたので、モンキーズの代わりに「ボク、ロボタン」なんて毎週なんて付き合ってられない!とテレビの前は離れていました。

 

中学3年の私は、親に反発し、学校では先生に歯向かっておりました。

 

時代的には、体制に反対意見を言えるようになってきたのでしょうね。

なにかそんなうねりのようなものが、世界中にあったのかもしれません、1969年には。。

 

そして、先生方も校庭で集会を開いて、授業ボイコット?で生徒は自習なんてことが翌年にはあったのでした。

いまどき、私立の一貫校の校庭で先生方が授業をボイコットして集会って、SNSで拡散されちゃいそうですね、

平和な時代でもあったのですね。

 

生徒が授業をボイコットし、翌年には、先生方も授業をボイコット・・これまで、タブーとされてきた自分の意見、NO!といえる空気が潮流になって流れていた気がします。

70年代のウーマンリブの運動にも続いていく時代のうねり、流れがありました。

1969年はどんな年だった?個人的な出来事とマイブーム

1969年はまた、野球は巨人が優勝し、相撲は大鵬が優勝し、「巨人、たいほう、卵焼き」だった頃だったのですね。

テレビはUHFで、番組も増えたし・・それでもテレビは一家に一台でしたよね?

電話も、一家に一台、携帯がなくて不便だったけど、自由な時間がありましたよね。

 

冒頭の問い、私は・・

1969年、あなたは何歳でしたか?

→私は、15才、中学3年生でした。

何をしていましたか?

→キリスト教系の女子校で毎朝礼拝で賛美歌を歌って、1日が始まっていました。

AFSの留学で、アメリカに行くのが夢だったので、英語の勉強を頑張っていました・・が、

父に「絶対に遠いところには行かせない」と言われ断念。

 

父は、家にアメリカの交換留学生を預かり、「これでいいだろう」と言うのでした。

・・ちょっと違う、と口には出せなかったです。

 

親への反抗を表すこと、親が一番いやがることはなんだろう?と考えて、

一番練習時間が遅く(帰宅が遅くて家にいる時間が減り)、その上親が嫌うであろう「女の子らしくない」

「バスケット部」に入部しました。

 

最初の頃、母は怒って私の分の夕ご飯を作ってくれませんでした。

練習終わって帰ったら、ご飯なくて悲しかったです。

 

それでも高3まで頑張ったけど、どんくさくて、ずーっとベンチでした。

何が楽しかった?と思うけれど、最後まで続けました。

 

内気だったのが、活発になり(うるさくなり)

バスケに「体幹」を鍛えてもらい、今も丈夫なのはバスケのおかげです。

 

・・おまけの話ですが・・

「お姉ちゃんとなんでも一緒」がいい妹も、高2の時に中1で入部してきて、

いきなり大活躍で県大会で準優勝。

姉として嬉しいような、惨めなような複雑な気分を味わいました。

 

その妹の息子も、186センチで選抜に選ばれるほどのプレイヤーです。

そのきっかけが、へっぽこ私のバスケライフだったよね、と今は笑い話です^^

 

どんな思い出がありますか?

→1969年、私が起こした一番の事件は、英語の先生をボイコットする事件です。

 

中1、中2と、アメリカ人と日本人の素晴らしい女性の先生方に教えてもらったのに、中3で教わったのが、新任の男性教師。

アメリカ人の先生方には、特にきびしく和製英語の発音を直されました。「チキン」の発音にダメ出しされて

ほぼ1時間クラスみんなで、「チキン、チキン、チキン・・って」繰り返していたこともあるほど・・。

 

ちょっとばかり、発音の違いに耳が慣れてきた生意気な中3女子のクラスに、思い切り昔ながらの日本式発音で、授業もダサい先生がやってきたのです。

 

超発音が悪いのに「リピートアフターミー」などと、強要されるのがいやでいやで、「あんな発音もアクセントもインフォメーションも絶対にうつりたくない!」って、クラス全員で生徒だけの話し合いになりました。

私だけじゃなく、みんなイライラしていました。

 

その時、ホームルームで、「私達にできることは?」って意見を出し合った結果、「英語の授業をボイコットしよう」となりました。

 

でも、ボイコットして遊んでいるのはだめだから、「自分たちで授業はしよう」と決めました。

ドアの鍵を内側からかけて、先生がノックしても開けませんでした

英語の先生のドアをノックする音にドキドキしました・・でも、無視してみんなでリーディング!

 

 

でも、ホームルーム委員の立場上?私が先生役で教科書を読み、みんながリピートしていたら、

「ドアを開けなさい!」と今度は、担任の先生の声が・・。

担任のは日本史の先生で私達の関係は良好でした。

・・が、その時いつも優しい担任はおこった声で!

 

「君たちは、何をしているんだ!!」と言われ、皆開き直り、口々に英語の授業への不満を言いました。

あの先生の授業は受けたくないと・・。

今思えば、その先生に申し訳なかったのですが、私達も真剣でした。

・・・・・・・

でも、結局のところ、

先生の交代はなく、いつもどおりの授業に戻ったのですが、私達の中でも「シラケ」というか投げやりな感じにな授業態度で、3年生を終えました。

 

私は、その先生の授業中は、耳を塞ぎはしないけれど、閉じたモードにして、自習のような感じでおりました。

自分で発音記号を一生懸命調べて、正しい発音を探していました。

 

その先生は、私達のボイコットを乗り越え、定年までお勤めになられたようなので、ある意味ホッとしながらも、、後輩たちを気の毒に思い、母校の英語力の低下を悲しく思ったものでした。

 

ひどいやり方だったので。

ボイコットも人の心を壊すから、破壊活動?黄色いベストと同じ?と思ったりもしています。

 

英会話の話ですが、

初学者に「リピート」をさせるには、教える側の責任はとても重いと思うのですが、今の日本はどうなのでしょうか?

もし、発音に自信がなかったら、学校の先生は思い切りオーディオに頼ってほしいと思います。

 

私が英語を好きになったのは、中1から中2そして、同じ学校の大学で4年間教えていただいたアメリカ人の先生のおかげです。

あんな大昔に、ハロウィンにはかぼちゃのクッキーを焼いてきて、ハロウィンの授業がとても楽しかったこと、先生の別荘に招待してくれたり本当にお世話になりました。

 

子育て中に児童英会話講師ができたのも、最初に良い先生に出会えたからでした。

もちろん、オーディオを駆使してレッスンをしました・・ネイティブスピーカーじゃないですからね。

すみません、

話が思い切りずれてしまいました。

英会話教育の話になると、とまらないのですm(_ _)m

 

どんな曲がすきでしたか?

ザ・タイガース、モンキーズ、テンプターズ、などグループサウンズ!

サウンド・オブ・ミュージック、ビートルズ、

フォークソングも好きでした。

クラスメートは、50名全員女子なので(笑)グループサウンズが一番人気、

 

加山雄三好きが1名、ジミ・ヘンドリックス好きが1名、ドアーズのジム・モリソン好きが1名

彼女たちは個性的、「自分の好み」をしっかり持っていた感じでした。

 

あの頃、おこられる気がしてロックとか洋楽聞こうとしなかったのが残念!

「家族全員の耳に入ってもいいレコード」じゃないと家に持ち帰れないと思い込んでました。

素晴らしいミュージシャンと時代を共にしていたのだな・・と改めて思う昨今です。

 

映画やテレビはどんなの観てた?

テレビは、妹もオッケーなら歌番組・・でも、部活で帰りが遅かったし、ほとんどテレビを観る時間はなかったです。

 

映画は、1968年か1967年に観た「ロミオとジュリエット」!

当時ビデオなどはなく、前編収録のレコードを購入。

ひたすらセリフや歌をリピートしていました。

 

後年、オリビア・ハッセーが布施明と結婚って、びっくりしました!

雲の彼方のお姫様が、ふつうに日本で暮らすの?と・・。

 

「天使の詩(うた)」ってあの頃観たような気がしますが、ご存知のかたいらっしゃいますか?

あんなに泣いた映画はなかったです。

弟ばかりを可愛がる親に耐えてるお兄ちゃんが死んでしまう話だったけど、共感部分があり涙涙。

 

「フレンズ」もあの頃?あの頃からフランスの雰囲気好きだったかもしれません・・。

「白い恋人」、ジャン・クロード・キリーのスキーとクロード・ルルーシュのBGM、なんと美しかったこと。。

 

好きというのではないかもですが、「天地創造」とか「十戒」とか宗教系映画は、学校の授業の一貫で連れて行かれたけれど、今も脳裏に焼き付いています。。

 

どんな本見てた?

中2くらいまでは、「女学生の友」で、グループサウンズ記事を読んだ記憶があります。「明星」や「平凡」は禁止だけど、「女学生の友」ならいいという親の意見でした^^

アイドル記事もよかったけれど、ケネディ大統領暗殺の謎、ケネディ家の記事となどが興味深かったです。

悲劇の前から、ジャクリーン夫人って、なんておしゃれできれいなんだろうと思っていました。

でも、「女学生の友」はなにか、レトロっぽいと感じてたので、

中2(1968年)に発売されたティーンルックやセブンティーンが新鮮で乗り換え。

グループサウンズの記事とファッションと・・。

明治製菓のチョコの何かを切り取って集めて、ザ・タイガースの小さなレコードも全部集めたりしていた中学女子でした^^

 

でも翌年、1970年 高校生になって、発売開始されたアンアン、ノンノに夢中になりました~!

モノクロからカラーの世界になった感じでしたね。

その後のmc sisterも大好きで。。

次々に発刊される雑誌を追うだけでも、すごい変遷で楽しかった頃でしたね~!

 

そんなわけで、中2くらいまではいつも読んでいた「小説」を読むのを忘れるほど、中3、私の1969年は、雑誌やアイドルや、バスケ、友達との交換日記、宿題で日々が過ぎていったのでした。

さいごに

1969年、あなたは何歳でしたか?

何をしていましたか?

どんな思い出がありますか?

どんな曲がすきでしたか?

映画やテレビはどんなのみてましたか?

どんな本見ていましたか?

同世代のあなたが、どんなふうな答えなのか、その後どんなことがあって、どんな思いで今日をむかえているのかなぁ?って思いながら、1969年ミニツアーのページを閉じさせていただきます。

コメント

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